上野焼とは

上野焼(あがのやき)とは、福岡県田川郡香春町・福智町・大任町で焼かれる、400年以上もの歴史を持つ陶器のこと。標高901メートルの福知山のふもと上野の地で開窯し、現在も窯元が点在しています。

徳川時代には、遠州七窯(えんしゅうしちよう)※の一つに指定されました。

そんな上野焼では、茶器・酒器・花器・飲食器・香器・装飾器など幅広い作品がつくられています。仕上がりの発色や釉薬の流れが異なり、その表現は20種類以上。ひとつとして同じものはつくれません。

模様つけには、化粧掛け・刷け目・へら目・彫り・櫛目などの技法が使われることがあり、見る角度で変わる表情も上野焼の魅力です。

さらに、明治以降の上野焼製品には”左回りの渦模様” 『左巴(ひだりどもえ)』と呼ばれる陶印が高台内や底面などにあります。(初期は無印もしくは作者名など)。現在も”巴マーク”や”巴ライン”などと呼ばれ、上野焼に欠かせない大切なシンボルです。

※徳川家の茶道指南役小堀遠州が指導し、好みの茶陶を焼いたとされる七つの窯。志戸呂(しどろ)・善所(ぜぜ)・朝日・赤膚(あかはだ)・古曽部(こそべ)・上野・高取(たかとり)。


茶会に用いる茶陶がルーツとなった上野焼の歴史

上野焼の始まりは、400年以上前の1602年、細川忠興(ただおき)が豊前小倉藩の藩主になったときまでさかのぼります。忠興が、朝鮮の陶工である尊楷(そんかい:和名は上野喜蔵高国)を連れ帰り、当地上野で一族に登り窯をつくらせたことがきっかけだといわれています。

忠興は、茶道で有名な千利休から直接指導を受けた人で、茶の湯の奥義を極めた大名。忠興の目にかなう格調高い特別な器は”茶会に用いる茶陶”がルーツであり、伝統と誇りに満ちた器たちは30年間にわたり献上され続けました。

しかし、江戸から明治にかけ藩制度が終わった1871年ごろには窯が閉鎖。上野焼は衰退し、一時は生産中止となります。しかし、地元住民の中には断続的ながらも、作陶を続ける努力をした人もおり、窯の復興へとつながったのです。

さらに、1902年には田川郡の補助を受けて復活。それまで使われてきた、藁やススキなどの自然釉に銅や鉄を混ぜるなどの研究を重ね、使用される釉薬の種類を増やします。

それにより、上野焼の代表的釉薬、緑青釉(ろくしょうゆう)※や、赤茶色で光沢のない鉄釉(てつゆう)が生まれ、危機的状況を乗り越えたのです。そんな上野焼は1983年に国の伝統的工芸品に指定され、現在に至ります。

※鮮やかな青緑色をした、酸化銅をつかった釉薬