天草陶磁器とは

天草陶磁器とは、約250~340年※¹の歴史を持つ、熊本県天草地方で焼かれる陶磁器の総称です。天草は九州最古の磁器産地であり、日本一を超え世界一の陶石といわれる『天草陶石』※²が採れる場所でもあります。

天草陶石は有田焼・波佐見焼・清水焼など全国の有名焼き物にもつかわれている石。全国の陶石生産量の約8割を占め、電気的絶縁性も高く、高圧碍子(がいし)※³や宇宙船の耐熱剤などにもつかわれます。

にごりのない白色と強度抜群の天草陶石は、平賀源内から『天下無双の上品に御座候』と称賛され、『陶器工夫書』の中にも記録されています。

また、青磁・白磁・染付に特徴があり、『内田皿山焼 (うちださらやま)・高浜焼(たかはま)・丸尾焼(まるお)・水野平焼(みずのだいら)』の4つがおもな産地。

そこからさらに窯元それぞれの個性的な焼き物が生み出されており、天草陶磁器すべてを見てまわるには1日では足りないといわれているほどなのです。

※¹陶器は約250年前、磁器は約340年前につくられたとされる※²主に天草下島(しもとう)で採れる。※³電気を絶縁し、電柱を支える器具。電線を支える白いもの、鉄塔についているそろばん型のものなどがある

新しい産業を生み出すため苦難を乗り越えて生まれた天草陶磁器の歴史

天草陶磁器の歴史は陶石が発見された1650年ごろまでさかのぼります。はじめは砥石(といし)として売り出された天草陶石は、やがて磁器の原材料として佐賀や長崎、そして全国へと広まっていきました。

また、江戸初期~中期の天草は、天領と呼ばれる幕府の直管轄地で、藩の御用窯がありませんでした。そのため藩の援助がない分、献上の役割もなく、当時から個性豊かで自由な日常づかいの器が焼かれていたといわれています。

天草陶磁器のなかでも、日本で2番目に古い窯といわれる『内田皿山焼』は江戸初期~中期に開窯されたものの一度廃窯したのち、1970年に復興。

1762年には高浜村(現天草市天草町高浜)の庄屋『上田家』6代目上田伝五右衛門武弼が、備前長与から陶工・山道喜右衛門を招き、高浜村鷹の巣山で焼き物を開始。これが天草陶磁器の一つ『高浜焼』の元祖だとされています。

さらに伝五右衛門は、山が多く田畑用地に恵まれない村を懸念。陶磁器製造を『新しい産業』につなげようと、陶石利用のために大金を投じましたがうまく行かず、明治なかばには一時廃窯…。

しかし、それでは村人の生活の糧が失われてしまいます。そこで伝五右衛門の息子、七代目上田源太夫宜珍が陶業を受け継ぎ、家財を投げ打ち苦労に苦労を重ねて努力を継続。やがて品質の良さが長崎奉行の目に留まり、オランダ向けの貿易品を焼き始めることになります。

このころには、鷹の巣山地区で数百人の生業となり、絢爛豪華な染付錦手(赤・青緑・紫・金)※も焼かれるように。また、1807年にはその秘伝技法が瀬戸の磁祖加藤民吉にも伝授されました。

その後江戸中期には『丸尾焼』、江戸後期になると『水の平焼』が開窯。『高浜焼』も1965年に復興。これら天草陶磁器は2003年に国の伝統的工芸品として指定され、4つを総称して『天草陶磁器』と呼ぶことになり、現在にいたります。

※色絵付けに染付を組み合わせた技法。