備前焼とは、岡山県の備前市伊部地区周辺で作られている陶器です。日本六古窯の中でも最古のものといわれています。作られている地名から「伊部焼」とも呼ばれています。
釉薬(うわぐすり)や絵付けをしないシンプルなデザインで、時間をかけて高温で焼き締めるので、とても硬いのが特徴の焼き物です。
原料である土の性質や窯の温度、焼成時の灰などにより、ひとつとして同じ色や模様にならないのも、備前焼の魅力といえるでしょう。
備前焼は1982年には伝統的工芸品に認定されます。その後2017年には、備前焼の技術などが「きっと恋する六古窯 日本生まれ日本育ちのやきものの産地」として日本遺産に認定されました。
備前焼の歴史は古く、古墳時代の須恵器(すえき)の製法がルーツといわれ、次第に変化したものとされています。当時は備前ではなく南側の邑久郷(おくのごう)で多く焼かれていました。
平安時代に熊山の麓で生活用器の碗や皿などが作られたのが、現在の備前焼の始まりといわれ、熊山には当時の窯跡が多く残っています。
その後、茶の湯の発展にともなって茶器の名作が数多く誕生しました。また、発展とともにたくさんの人間国宝になる陶工達が登場します。
備前焼は日本の六古窯といわれる、常滑・丹波・設楽・越前・瀬戸・備前の中で最古のものです。備前焼としては、平安時代に熊山で製造された生活用器が最初といわれています。
鎌倉時代には、山土を主に使った粘土で壷や擂鉢(すりばち)が多く作られました。
また、それらのものが好調に売れるようになってからは交通に不便な熊山から里へ下り、今の伊部に窯を作り始めます。
シンプルなデザインが魅力の備前焼は、やがて京都や堺の茶人にも認められ、桃山時代には多くの茶器が作られました。侘び・寂びの境地を尊ぶ茶道「侘び茶」の提唱者である僧侶・村田珠光は、茶陶の中では備前焼が最高だと高く評価しています。また、有名な千利休も愛用していました。
その後江戸時代には小規模な窯元の統制があり、窯元が六姓(木村・森・寺見・頓宮・金重・大饗)になります。江戸後期には、有田や瀬戸で磁器の生産が盛んになり、備前焼は徐々に衰退していきました。
低迷期を迎えていた備前焼ですが、伝統的文化を見直そうという風潮などにより再び関心が高まり始めました。芸術的な作品などを作る陶工も現われ、戦後には備前焼などの工芸品の保護・育成のために、優秀な陶工が無形文化財に指定されるようになります。
1956年には金重陶陽が人間国宝になり、備前焼の復興の兆しが見え始めました。その後、藤原啓・山本陶秀・藤原雄・伊勢崎淳の4人が人間国宝に指定され、優秀な陶工達が名作を生みだし、備前焼は現在も広く親しまれています。