萩焼とは山口県萩市を中心に作られている陶器です。基本的に飾り気のないシンプルな作風であるのが特徴で、絵付けなどがないために土本来の風合いや美しさを感じられます。土の配合や釉薬の微調整、ヘラで削った模様などによってさまざまな表情が楽しめるのも魅力的です。
萩焼は茶器として有名ですが、実際には茶器だけでなくほかの作品も多く作られています。特に最近では多様性が求められ、さまざまなデザインの日用品や小物が作られているそうです。吸水性があるのも特徴のひとつで、使えば使うほどに味わいや深みが増していくでしょう。
人肌を思わせるような温かみのある風合いや手触り、土の感触を楽しめるのも魅力的。手に取ったときに、思わずホッとするような温もりを感じられるでしょう。柔らかな合いや手触りは実際に手に取ってみなければ分からないので、ぜひ一度は萩焼を手にしてみてください。
萩焼は、1592年「文禄・慶長の役」が起源であるといわれています。当時は茶の湯が大名に地位を表すということもあり、茶器が大きく発展。有名な茶器としては、高麗茶碗が珍重されていました。
そこで豊臣秀吉は、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際に技術力のある陶工を連れ帰るように指示し、朝鮮から多くの陶工が日本へ訪れました。このときに日本へと渡った陶工が西日本の陶磁器が発展させたことから、別名「やきもの戦争」とも呼ばれています。
その当時、豊臣秀吉に茶の湯を嗜むことを許され、千利休との交流があった大名がいました。それが、萩藩の開祖である毛利輝元(もうりてるもと)です。毛利輝元は、文禄・慶長の役の際に萩焼の礎である、李勺光(りしゃっこう)と弟である李敬(りけい)を茶の湯へと招きました。
1600年の関ヶ原の戦いで毛利輝元が戦に敗れ、安芸の広島から長州の萩に場所を移しました。このとき、毛利輝元とともに李勺光と李敬が萩に築いた御用窯が、萩焼の始まりといわれています。
当初は、朝鮮式の高麗茶碗に似た茶碗が数多く作られていました。明治維新以降は近代化に伴い、生産性を意識した萩焼が作られるようになります。さらにその後は窯元の数が減少していきますが、明治時代後期に日本の伝統文化に再評価が起こりました。