石見焼とは

石見焼(いわみやき)とは、島根県の西部にある江津市(ごうつし)を中心とした石見地方(浜田市、大田市を含む)で焼かれる陶器の総称。石見焼の始まりは1763年ごろといわれており、250年以上もの歴史があります。

石見焼の中でも特に有名な『はんど・はんどう』と呼ばれる赤茶色の大型貯水用水がめは、大きなものでは、大人の胸の高さくらいまである迫力の大きさ。まだ水道のなかった明治時代の必需品であり、頑丈で丈夫な作りから人々に大変重宝されました。

つまり、明治時代はまさに石見焼にとって最盛期といえる時代で、100件を超える窯元があり、昭和中期ごろまで多くの需要がありました。

また、石見焼では水がめなどの大型焼き物だけでなく、急須などの茶器や食器など小ぶりな製品も多く作られています。瓦などでも知られていますが、現代ではガーデンテーブルや傘立てなどのインテリア系陶器も人気です。

石見焼の焼成には電気やガスを使う窯元が増えているものの、あえて『登り窯』にこだわる窯元もあり、現在も個性豊かでさまざまな石見焼が生まれ続けています。

明治の人々のくらしを支えた石見焼の歴史

1592年~1610年に出兵した武士が帰国する際、朝鮮の陶士である李郎子(りろうし)を連れて帰り、現在の島根県浜田市や鹿足郡柿野村(かのあしぐんかきのむら)で陶器を作らせたのが、石見焼の起源となったのではないかといわれています。

当時からこれらの地では、都野津(つのづ)層土から良質な粘土が採れており、石見焼や石見瓦の原料となったのです。

また、現在の島根県江津市において本格的な製陶法が伝わったのは1765年(江戸中期)ごろ。

周防岩国藩(すおういわくにはん:現在の山口県の東部を領有した藩)から招かれた陶工:入江六郎によって製陶法が伝えられ、片口や徳利などの小さな製品が作られるようになりました。

その後約20年経ったころ、備前の国(岡山県)から、水がめなどの大きな陶器製品が伝えられるようになります。それはやがて『石見のはんど・はんどう(半胴)』と呼ばれ人気となり、江戸時代末期には北前船(きたまえぶね)※によって日本海沿岸に運ばれたのです。

さらに大正期以降には鉄道の発達で内陸部にも運べるようになり、石見焼は全国への輸送が可能に。1950年代には水道の普及で水がめとしての需要は大きく落ち込んだものの、石見焼の特徴を生かし、食品貯蔵用として厳しい時代を乗り越えることができました。

その後は時代のニーズに合わせた食器をはじめ、さまざまな日用品も作られており、そんな石見焼は1994年7月に国の伝統的工芸品に指定されています。

※大阪と北海道を日本海回りで航海していた商船