笠間焼とは

笠間焼(かさまやき)とは、主に茨城県笠間市で作られる焼き物です。長い歴史を持っていますが、作品自体にはさまざまなスタイルがあり、「自由焼」ともいわれています。

江戸時代ごろに誕生し、日用雑器として使われてきた笠間焼。1992年には国の指定する伝統的工芸品になり、現在300人以上の作家が活躍しています。

材料に使われるのは笠間周辺で採れる笠間粘土です。粘りが強く成形しやすいのが特徴で、鉄を含んでいるので焼成後には有色になります。

春に陶炎祭(ひまつり)、秋に笠間焼フェアなど、笠間焼に関係するイベントもたくさんおこなわれています。日用雑器以外にも、芸術作品として楽しまれているのです。

たくさんの人々によって支えられた笠間焼

縄文時代や弥生時代から焼き物作りが 盛んだった笠間の地域。

江戸時代の安永年間(1772~1881年)には、久野半右衛門(くの はんうえもん)が「箱田焼(はこだやき)」という焼き物を始めました。

天保年間(1830~1840年)に始まった山口勘兵衛の「宍戸焼(ししどやき)」という焼き物を始めており、これと「箱田焼」が笠間焼の源流といわれています。

笠間藩主の牧野貞喜(まきの さだはる)と牧野貞直(まきの さだなお)は、これらの焼き物を積極的に保護し、窯業を奨励。より多くの生産や後世への継承を促すため、藩の御用窯「仕法窯」も指定されました。

また、栃木県の伝統的工芸品「益子焼(ますこやき)」は、産地として笠間焼と兄弟関係にある焼き物としても有名です。笠間からはたくさんの陶芸家が生まれ、この陶芸家の1人が栃木県益子で「益子焼」を始めたとされています。

明治時代には、田中友三郎の活躍により笠間焼の知名度がぐんとアップ。「頑丈で安い」と高評価を受けるようになりました。

しかし戦後、金属製品やプラスチック製品などが登場。より安くて手軽な日用品が出回ったことで、笠間焼の人気は低迷していまいます。

そこで1950年、「茨城県窯業指導所」という窯業に関する研究と人材育成を目的とした機関が設立されます。それだけでなく、芸術家を誘致する事業や笠間焼協同組合なども設立され、地域一丸となって笠間焼を盛り上げていきました。

そのおかげもあって、さまざまな作家たちが笠間に移住。地元の作家と切磋琢磨し合いながら、個性のある作品が生まれていきました。

これまで主に生産されてきた日用雑器以外に美術品としての作品も誕生し、笠間焼に活気が戻り始めます。

1992年には国の伝統的工芸品にも指定された笠間焼。伝統的な作品から今っぽい個性的な作品まで、多様性あふれるデザインが特徴の焼き物になりました。