益子焼とは

益子焼(ましこやき)とは栃木県芳賀(はが)郡益子町周辺で作られる陶器のことで、江戸時代末期に茨城の笠間で修行をした大塚啓三郎が始めたとされています。陶土にほかの物質を加えず焼くことで、厚みのあるぼってりとした見栄えになるのが特徴です。

また、生活の中に取り入れやすい作品が多いので、男女問わずファンの多い焼き物としても知られています。1979年には国の伝統工芸品に指定され、主な産地である益子町では春と秋に陶器市が開催されるなど、焼き物の産地として発展し続けています。

日本の台所を支える「益子焼」の歴史

益子で焼き物が焼かれるようになったのは、奈良時代とされています。その後、1853年に茨城県の笠間で修行していた大塚啓三郎が、益子の根古屋に窯を築いたのが益子焼の始まりといわれています。

農業の傍らで陶芸をしていた大塚は製作資金が少なかったため、益子焼を広げるために藩の役所に資金の貸し付けを申し出たそうです。それほどまでに、益子焼の製作に力を入れていました。

当時、関東地方は笠間焼しか焼き物がなかったため、新たな焼き物として益子焼の評判は上々だったようです。

<>【発展と衰退の歴史】

益子焼は明治時代以降も順調に発展を続け、関東一帯をマーケットとして販売されるようになります。しかし、明治末期には京焼など完成度の高い焼き物が多く出回るようになり、益子焼の発展は陰りを見せるようになりました。

さらに明治から大正にかけて生活様式が変わり、高熱に耐えられない益子焼はアルミ製や金属製の食器に変えられてしまいました。

そんな中、1923年に起きた関東大震災の影響で東京の食器が不足したことで状況が一変します。東京での食器などの需要が増え、しばらく供給が追いつかなくなるほどの盛況を取り戻しました。

昭和に入ると益子に定住した濱田庄司によって食器や花瓶などが作られるようになり、日常生活で使われる芸術品として広く知られるようになりました。濱田の思想が多くの陶工たちに影響を与え、現在の益子焼として発展していきます。

1951年には現在の益子焼協同組合の元になる、栃木県陶磁器製土工業組合が作られました。1979年には現在の経済産業省により伝統的工芸品にも指定されるなど、現在では国を代表する陶芸品として活躍しています。

【人間国宝】

益子焼の歴史の中には、2人の人間国宝の陶工が存在します。人間国宝の制度は、1955年にできました。その第1回目の人間国宝に認定されたのが、濱田庄司です。濱田庄司は「用の美」を見出し、現在の益子焼の基本スタイルを確立させました。

濱田は益子焼の作品を広く知らしめただけではなく、地元の陶工たちにも多大な影響を与えた人物として知られています。

2人目は、濱田庄司の門下の島岡達三です。1954年に本格的に作品を作りはじめ、毎年個展を開きました。1964年には、日本民藝館新作展で日本民藝館賞を受賞します。その後1980年には栃木県文化功労賞を受賞し、1996年に人間国宝に認定されました。