大谷焼とは、徳島県鳴門市を中心に作られている陶器です。こげ茶色の大谷焼が一般的ですが、灰色や深い銀色といった色合いも人気。毎年11月には東林院境内で「陶器市・大谷焼窯まつり」が開催され、陶器の愛好家や地元の人々で大いに賑わいます。
また、大谷焼は「寝ロクロ」という製法が有名。作業台の下に助手が寝転び、足でロクロを回す製法はほかでは見られません。「登り窯」と呼ばれる焼き窯は日本一の大きさを誇り、大型の陶器も数多く産出しています。
大谷焼のはじまりは、江戸時代後期にまでさかのぼります。
1780年、焼き物細工師である文右衛門が四国八十八カ所霊場巡りのため、大谷村を訪れていました。その際、ロクロ細工を披露し、蟹ヶ谷の赤土で陶器を焼き上げたといわれています。この陶器がのちの大谷焼の基礎であり、阿波の国(現在の徳島県)を治めていた12代目藩主・蜂須賀治昭(はちすかはるあき)の興味をそそることになります。
村内に藩窯を作るように命じた蜂須賀治昭でしたが、思いのほか原材料費がかさんだことにより、3年後にいったん閉鎖。その後、1784年に藍商人である賀屋文五郎の働きによって、村内に日用品用陶器を焼く民窯「連房式登窯」が築かれました。
過去の失敗を受けて原材料費を削減するために、陶土や釉薬(ゆうやく)などは地元から調達。陶器製造を学んだ加賀文五郎と弟・平次兵衛により、大型陶器の生産をしはじめ、現在の大谷焼の原型になったといわれています。
明治時代には、藍染に使用される「藍甕(あいがめ)」を多く産出しました。しかし、大正時代になると生活様式の変化に伴い、日用品や装飾品など多彩な大谷焼製品が作られるようになります。