壷屋焼とは

壺屋焼とは、沖縄県那覇市壺屋地区および読谷村(よみたんそん)その他で焼かれる、沖縄を代表する陶器のこと。これらの地域には良質の粘土層があるため、陶土にも恵まれています。素朴で力強く、どっしりぽってりとした存在感あふれる佇まいが魅力です。

壺屋焼全体は『焼物(やむちん)』とも呼ばれており、これは沖縄のことばで”焼き物”を意味します。さらに上焼(じょうやち)と荒焼(あらやち)に分けられますが、現在おもにつくられているのは上焼の方です。

形成はろくろ、押し型、型おこし、手びねりなどを用い、手づくりのよさが生かされたデザインが多くなっています。色とりどりの釉薬を使い、沖縄らしい絵柄が描かれるほか、浸し掛け、流し掛け、振り掛け、布掛けの施釉技法が使われることも。

さらに、はけ目、象嵌(ぞうがん)※¹、印花(イングァー)※²、掻き落とし※³、線彫、飛びカンナなどで装飾します。

焼成は、昔ながらの登り窯中心でしたが煙害の影響※⁴などから、ガス窯、灯油窯、電気釜などを用い、壺屋焼ならではの伝統技術と技法を受け継いでいるのです。

※¹器の表面を削り掘った部分に粘土をはめ込み、模様を付けたあと、釉薬をかけて本焼き※²沖縄独自の竹を使った道具作品で印(スタンプ)を押して模様をつける技法。※³陶器の表面を削って異なる色を出し模様にする技法(素地土の上に化粧土をかけてある)※⁴伝統技法を守るため1980年に共同登り窯が許可された


琉球王国から沖縄へ。戦争を乗り越えて続く壺屋焼の歴史

約600年もの長い歴史を持つといわれる壺屋焼は、琉球文化圏で使うためにつくられたのが始まり。1200~1600年ごろ大陸からもたらされた『高麗瓦』などが由来とされ、琉球王朝では海外との貿易が盛んでした。

しかし1609年に江戸幕府薩摩藩の支配下におかれると、多くの制限が発生。外国と交流ができなくなり貿易も下火に。その影響で陶器が入って来なくなったため、自分たちで生産するほかなくなったのです。

さらに1682年、王府の工芸産業振興政策の一環として、分散されていた3つの窯『美里の知花窯(ちばな)、首里の宝口窯(ほうぐち)、那覇の湧田窯(わくた)』を那覇市の牧志の南(壺屋)に統合。

壺屋は良質な粘土があるだけでなく、焼き物に欠かせない水場もあり、登り窯にふさわしい邱陸地(きょうりょうち)も。さらに燃料として使う薪を運ぶ港が近いことや、首里城と那覇の中間という好立地な条件もそろった地域です。

そこで焼かれる焼き物を壺屋焼と呼んだのが始まりといわれています。

その後、1872年には琉球王国から琉球藩へと変わり、さらに戦争も起きて藩のおかかえ窯はどんどん閉鎖。壺屋焼も閉窯されたものの、終戦とともに焼物職人が収容所から解放され、壺屋に返還されました。

さらに1879年に『沖縄県』に変わってからは、安い陶器が県外から流入し、壺屋焼は衰退し苦戦。しかし1926年の『民藝運動』に参加し、壺屋焼の良さを全国に幅広く知ってもらうことができました。

そのようにして山あり谷ありの壺屋焼は、官用窯に縛られておらず、自分たちで陶器をつくる仕組みを持っていたことも、生き残ることができた理由といえるでしょう。

そんな壺屋焼は1976年には国の伝統的工芸品に指定されています。